「金色夜叉」
作:尾崎紅葉
未だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠めて、真直に長く東より西に横はれる
大道は掃きたるやうに物の影を留めず、いと寂くも往来の絶えたるに、例な
らず繁き車輪の輾は、或は忙かりし、或は飲過ぎし年賀の帰来なるべく、疎
に寄する獅子太鼓の遠響は、はや今日に尽きぬる三箇日を惜むが如く、その
哀切に小き膓は断れぬべし。
(略)
唯後に遺り候親達の歎を思ひ、又我身生れ効も無く此世の縁薄く、かやうに
今在る形も直に消えて、此筆、此硯、此指環、此燈も此居宅も、此夜も此夏
も、此の蚊の声も、四囲の者は皆永く残り候に、私独り亡きものに相成候て、
人には草花の枯れたるほどにも思はれ候はぬ儚さなどを考へ候へば、返す返
す情無く相成候て、心ならぬ未練も出で申候。
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