旅愁 横光利一
家を取り壊した庭の中に、白い花をつけた杏の樹がただ一本立っている。復活祭の近づいた春寒い風が河岸から吹く度びに枝枝が慄えつつ弁を落していく。パッシイからセーヌ河を登って来た蒸気船が、芽を吹き立てたプラターンの幹の間から物憂げな汽缶の音を響かせて来る。城砦のような厚い石の欄壁に肘をついて、さきから河の水面を見降ろしていた久慈は石の冷たさに手首に鳥肌が立って来た。
下の水際の敷石の間から草が萌え出し、流れに揺れている細い杭の周囲にはコルクの栓が密集して浮いている。
(略)
何を云い出すのかな、と久慈はまた東野の講演の方に耳をひかれた。「御承知のように、物の本質をなすこの微粒子の中心には、刎ねつけあう電気の争いと、磁力の牽きあう愛情とがあります。しかし、何ゆえにその二つのものが、一つのものの中にあるかという憂いの根幹の詮索に、地球上の全物理学者の関心が高まりました際になって、突如として、このたびの戦争が起って参りました。そして、その憂いの根本も分らなくなったのであります。再び空空漠漠――この漠漠たる空の中に、私らは立って、何を念じ、何を呼び起そうとすべきでありましょうか。秩序であります。この秩序を求めてやまない私らの心は、ただ坐して得られるものではありません。忽然念起――忽然として念じ起たねばなりません。文学も、哲学も、宗教も、新しい愛情さへも、発足点をここに念じて、出発すべきであります。」
日比谷からは拍手があがった。真紀子も愁眉を開いた。
「何やらうまいこと云ったね。」
と平尾男爵は傍の矢代を見返って云った。室内のものらはみな笑った。下の部屋の方へ降りていくものらの中からも、階段を踏み下りながら、「忽然念起」と呟く声が聞えた。それは冷かしのようでもあれば、真面目なようでもあった。久慈は、公衆に対って云っている東野の声の中心が、意識の底でこの部屋を対象に放っている声だと思った。そう思うと、同時にそれは妻を失った東野の真紀子に送っている艶文のようにも聞えて来るのだった。それも過たず矢は的に命中していた。
未完
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