Category Archives: 名作文学

真珠夫人 菊池寛

「真珠夫人」
作:菊池寛

 汽車が大船を離れた頃から、信一郎の心は、段々烈しくなつて行く焦燥しさで、満たされてゐた。国府津迄の、まだ五つも六つもある駅毎に、汽車が小刻みに、停車せねばならぬことが、彼の心持を可なり、いら立たせてゐるのであつた。
 彼は、一刻も早く静子に、会ひたかつた。そして彼の愛撫に、渇ゑてゐる彼女を、思ふさま、いたはつてやりたかつた。

(略)

 記憶のよい読者は、去年の二科会に展覧された『真珠夫人』と題した肖像画が、秋の季節を通じての傑作として、美術批評家達の讃辞を浴びたことを記憶してゐるだらう。
 それは、清麗高雅、真珠の如き美貌を持つた若き夫人の立姿であつた。而も、この肖像画の成功はその顔に巧みに現はされた自覚した近代的女性に特有な、理智的な、精神的な、表情の輝きであると云はれてゐた。その絵を親しく見た人は、画面の右の端に、K. K. と署名されてゐるのに気が付いただらう。それは、妹の保護のもとに、芸術の道に精進してゐた唐沢光一が、妹の横死を悼む涙の裡に完成した力作で、彼女に対する彼が、唯一の手向であつたのであらう。

       

 瑠璃子を失つた美奈子の運命が、此先何うなつて行くか、それは未来のことであるから、此の小説の作者にも分らない。が、われ/\は彼女を安心して、直也の手に委せて置いてもいゝだらうと思ふ。

 

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父帰る 菊池寛

「父帰る」
作:菊池寛

賢一郎 おたあさん、おたねはどこへ行ったの。
母   仕立物を届けに行った。
賢一郎 まだ仕立物をしとるの。もう人の家の仕事やこし、せんでもええのに。
母   そうやけど嫁入りの時に、一枚でも余計ええ着物を持って行きたいのだろうわい。
賢一郎 (新聞の裏を返しながら)この間いうとった口はどうなったの。
母   たねが、ちいと相手が気に入らんのだろうわい。向こうはくれくれいうてせがんどったんやけれどものう。
賢一郎 財産があるという人やけに、ええ口やがなあ。

(略)

おたね 兄さん!
(しばらくのあいだ緊張した時が過ぎる)
賢一郎 新! 行ってお父さんを呼び返してこい。
(新二郎、飛ぶがごとく戸外へ出る。三人緊張のうちに待っている。新二郎やや蒼白な顔をして帰って来る)
新二郎 南の道を探したが見えん、北の方を探すから兄さんも来て下さい。
賢一郎 (驚駭して)なに見えん! 見えんことがあるものか。
(兄弟二人狂気のごとく出で去る)

 

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文字禍 中島敦

「文字禍」
作:中島敦

 文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか。
 アッシリヤ人は無数の精霊を知っている。夜、闇の中を跳梁するリル、その雌のリリツ、疫病をふり撒くナムタル、死者の霊エティンム、誘拐者ラバス等、数知れぬ悪霊共がアッシリヤの空に充ち満ちている。しかし、文字の精霊については、まだ誰も聞いたことがない。

(略)

 文字の霊が、この讒謗者をただで置く訳が無い。ナブ・アヘ・エリバの報告は、いたく大王のご機嫌を損じた。ナブウ神の熱烈な讃仰者で当時第一流の文化人たる大王にしてみれば、これは当然のことである。老博士は即日謹慎を命ぜられた。大王の幼時からの師傅たるナブ・アヘ・エリバでなかったら、恐らく、生きながらの皮剥に処せられたであろう。思わぬご不興に愕然とした博士は、直ちに、これが奸譎な文字の霊の復讐であることを悟った。
 しかし、まだこれだけではなかった。数日後ニネヴェ・アルベラの地方を襲った大地震の時、博士は、たまたま自家の書庫の中にいた。彼の家は古かったので、壁が崩れ書架が倒れた。夥しい書籍が――数百枚の重い粘土板が、文字共の凄まじい呪の声と共にこの讒謗者の上に落ちかかり、彼は無慙にも圧死した。

 

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名人伝 中島敦

「名人伝」
作:中島敦

 趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名手・飛衛に及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌は遥々飛衛をたずねてその門に入った。

(略)

「ああ、夫子が、――古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途も!」
 その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟の絃を断ち、工匠は規矩を手にするのを恥じたということである。

 

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光と風と夢 中島敦

「光と風と夢」
作:中島敦

 一八八四年五月の或夜遅く、三十五歳のロバァト・ルゥイス・スティヴンスンは、南仏イエールの客舎で、突然、ひどい喀血に襲われた。駈付けた妻に向って、彼は紙切に鉛筆で斯う書いて見せた。「恐れることはない。之が死なら、楽なものだ。」血が口中を塞いで、口が利けなかったのである。

(略)

 老酋長の一人が、赤銅色の皺だらけの顔に涙の筋を見せながら、――生の歓びに酔いしれる南国人の・それ故にこそ、死に対して抱く絶望的な哀傷を以て――低く眩いた。
「トファ(眠れ)! ツシタラ。」

 

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