法学とは何か(9) 末弘厳太郎

 五 近代社会が特に法学的の訓練を受けた人間を大量的に必要とするのは、近代社会のかくのごとき特徴によるのである。しからば、その所謂法学的訓練とは何か。その意味が一般に十分理解されていないから、法学教育の目的もハッキリせず、法学部卒業生のいかなる能力が――例えば会社などでも――特に役に立つのかが、一般に正しく理解されないのである。
 単に学問が職業を得る手段として役立つというだけの意味であれば、すべての学問が「パンの学問」であって、法学だけが特に「パンの学問」だと言われる訳はない。現代の世の中そのものが法学的の素養がある者を沢山必要とするようにできていればこそ、法学を学ぶによって職業を得ることができるのである。従って法学教育それ自身も、結局そういう目的に役立つのだという意識の下に行われなければならず、新たに法学に志す人々も、初めからその理を心得ている必要があるのである。
 大学で習ったことそれ自身がそのまま役に立つのではなくして、むしろそれを忘れてしまった頃に初めて一人前の役人や会社員になれるという言葉も、法学教育の真の目的を理解してみれば非常に味わうべき言葉で、学生はもとより、現に法学教育に従事している人々にとっても深い教訓的意味を持っている。大学で教えられた知識がそのまま実際の役に立たないことは、ひとり法学教育に限ったことではない。しかるに、法学の場合に限って右の言葉が特に意味を持つように考えられるのは、従来の法学教育それ自身に欠陥があるからであり、しかも学生が一般にそれに気づいていないからである。現在の法学教育は一般に、主として現行法の知識を与えるという形で行われている。そして学生は一般に、かくして与えられた知識を消化することに全力を挙げているから、法学の教育もしくは学習は、結局現行法を理解し、記憶することを目的とするように考えられるけれども、実を言うと、かくのごとき教育もしくは学習を通して、学生は法学的のものの考え方を教え込まれるのである。そして学生が卒業後職についてから実際上役に立つのは、そのものの考え方にほかならないのである。無論、現行法を知らずに、考え方だけを抽象的に習得する訳にはゆかない。しかし、現行法の教育も、究極においては現行法そのものを教えることを目的とするのではなくして、現行法の理解を手づるとして法学的のものの考え方を会得せしめようというのがその目的である。そしてかくのごとくに考えればこそ、大学の法学教育で現行法のほかに法制史や外国法を教える意味もわかるのであり、現行法の教育としても、もっと目的に適った教え方があるのではないかというようなことも、考え得るに至るのである。
 大学で教えられたことを忘れた頃に初めて一人前の役人や会社員になれるというのも、実を言うと、大学で授けられた知識を手づるとして卒業後実務上の修練を重ねた結果、大学では無意識的にしか習得しなかった法学的の考え方が成熟したことを意味するのであって、大学教育が初めから全く無価値であったという意味ではない。しかし従来大学の法学教育には、一般にこの理合が十分に意識されていない。少なくとも、学生にそういう理解を与える努力が意識的に行われていない。そのため教育と学習の能率が著しく阻害されているように、私は考えるのである。
この文章は、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/
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