哲学入門(60) 三木清

 ところで他が自己に呼び掛けるというのは他が表現的なものであるからである。汝として我に対するものは表現的なものでなければならぬ。汝は表現的なものとして我の行為を喚(よ)び起すのである。人間の真理と虚偽が、ほんととうそとして、特に言葉に関して理解されるのも、そのためである。我々の行為は表現的なものから喚び起されるのであり、かようなものとしてそれ自身表現的である。主体と主体とは表現的なものとして相対し、その行為的聯関は表現的聯関である。しばしば論じた如く、主体とは単に主観的なものでなく、むしろ主観的・客観的なものである。そして表現というのは、主観的なものと客観的なものとが、内と外とが一つであることを意味している。表現において、内部が外部に表現されるといわれる。この内なるものは単に主観的なもの、単に個人的なものであることができぬ。却って我々は己れを殺すことによって真に表現的になり得るのである。技術的に作られたものは表現的であるといわれるが、その場合、もし我々の意欲が単に主観的なもの、肆意(しい)的なものであるとしたならば、自然の客観的な法則がこれに向って反逆し、これと一つに結び付いて物が作られるということはないであろう。その意味で技術における人間の意欲は客観的意味をもったものでなければならぬ。ひとは技術において自己の主観的な意欲を制し、これを客観的なものにすることを学ぶのであって、技術が道徳的教育的意味をもっているのも、そのためである。我々の意欲が或る客観的なものであることによって技術は成立するのであり、人間の技術が自然の技術を継続するということも、そのためにいわれることである。それだからといって、技術は単に客観的なものであるのでなく、やはり主観的なものと客観的なものとの統一である。単に主観的なものを否定することによって我々は真に主体的になるのであり、人間のまことが現われるのである。このものは超越的意味をもっている。表現において表現されるものは単に心理的なもの、内在的なものでなく、超越的なものでなければならぬ、イデー的なものでなければならぬ。真に自己に内在的なものは超越的なものによって媒介されたものであり、超越的なものによって媒介されたものが真に自己に内在的なものであるというところに、人間の存在がある。しかしながらそのことは表現作用が単に理性(ロゴス)から起るということを意味するのではない。「デーモンの協力なしには芸術作品はない」とジイドがいった如く、我々の表現作用の根柢にはデモーニッシュなもの、大いなるパトス(感情)がなければならぬ。「世界におけるいかなる偉大なことも激情なしには成就されなかった」、と理性主義者ヘーゲルでさえいっている。デモーニッシュなものとは無限性を帯びた感性的なものである。人間の動物的衝動という言葉は、比喩的に語られているのでなければ、不正確に語られているに過ぎぬ。我々は動物的衝動をもっているのでなく、ただ人間的衝動をもっているのであり、このものは外的機能においていかに動物的衝動と類似しているにしても、性格的にはそれとは別のものである。人間的衝動はデモーニッシュであり、また人格化されている。人間が超越的であるのは単に理性においてでなく、却ってその全存在においてである。プロメテウスの神話が象徴している如く、技術というものもしばしばデモーニッシュな衝動に基いている。世界の根柢には無限の闇、無限の衝動がある。もとよりパトス的なものは無限定なものであり、しかるに表現作用は形成作用として限定作用である、そこにパトス的なものの中からイデーが生れるということがなければならぬ。パトスが衝動的であるというのも、それ自身は無限定なものでありながら、すでにそれ自身のうちに限定への、イデーへの、形への無限の希求を含むためでなければならぬ。表現におけるイデーは抽象概念の如きものでなく、パトスの中から生れたものであり、従って抽象的に理性的なものでなく、むしろ感情的・理性的なものである。形はイデー的なものであるが、単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものである。しかもイデーは働くことによって見られるもの、作ることにおいて見られるものである。それは歴史に対して先在的にあるものでなく、却って歴史的なもの、歴史において現われてくるものである。しかし真に歴史的なものは単に歴史的なものでなく、歴史的なものと超歴史的なものとの統一である。
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