哲学入門(61) 三木清

人間が表現的なものであるということは、簡単にいうと、人間が世界のものであるということである。その意味はあたかも、薔薇が自然を表現するといわれるのと同様である。自然とは生むものであり、薔薇は自然から生れたものとして自然を表現している。人間も世界から作られたものとして世界を表現している。この世界を自然といい物質というにしても、それは歴史的自然であり、歴史的物質である。表現的なものは歴史的に形成されたものである。人間は歴史的・形成的世界の形成物として表現的である。すべて表現的なものは個別的なものである。しかし単に特殊的なものは表現的でなく、表現的なものは一般的意味をもつものでなければならぬ。人間は世界的意味をもつものとして表現的であるというとき、世界は客観としての世界であることができない。表現的なものは単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものであり、そこには内部が外部に現われるということがなければならぬ。この内部は単に心理的・内在的なものでなく、超越的意味をもつものでなければならぬ、真に内なるものは真に外なるものでなければならぬ。
もとより我々は無限定に世界を表現するのではない。表現するとは却って形成することであり、形成するとは限定することである。表現的なものは単に一般的なものでなく、特殊的に限定されたものである。我々は世界一般を表現するのでなく、却って個々の個別的社会を表現するのであり、個別的社会における個々の個別的関係を表現するのである。我々はそれぞれの場合において、或いは親子として、或いは友人として、或いは学生と教師として、それぞれ具体的な社会的関係を表現している。表現的なものは単に特殊的なものでなく、自己がそれにおいて他と関係する一般的なものを表現している。表現的なものは個別的なものであり、個別的なものは特殊的なものと一般的なものとの統一として、特殊的・一般的に限定されたものである。汝は表現的なものとして我に呼び掛け、我は汝から喚(よ)び起される、道徳的命令はつねに具体的に限定されたものである。「汝為すべし」ということはつねに一定の歴史的・社会的関係から出てくるのである。そこに表現されているのは社会的意味であり、道徳的意味充実はつねに社会的意味充実である。汝は汝自身を表現すると共に社会を表現する。社会は表現的なものであり、大なる汝である。社会はしばしば「大なる我」と看做(みな)されてきた。しかしかように考えることは、社会を単に我に内在的なものと考えることになるであろう。社会は超越的なものとしてむしろ「大なる汝」であり、我も汝も社会を表現するものとして我であり汝である。我と汝との行為的聯関の基礎にはつねに我と汝とがそれにおいて関係する場所としての社会がある。我と汝とは一つの環境、一つの社会、一つの場所にあって働き合うのであり、我々はつねに環境的に限定され、環境を表現している。社会は我々がそこにおいてある場所として、単に客観的なものでなく、主体的なものである。しかるに個別的社会も、単に自己自身を表現するのでなく、同時に自己を超えた社会、自己がそれにおいてある環境を表現するのであり、かようなものとしてそれは表現的といい得るのである。民族の如きも歴史的に形成されたものであり、自己自身を表現すると共に世界を表現している。世界といっても、世界一般があるのでなく、それぞれの時代における世界があるのであり、それらの個々の世界がそれにおいてある世界、絶対的場所としての世界を表現している。この世界は絶対的に主体的なものであり、過去現在未来における一切のものがそこから生じ、それにおいてある真の現在である。すべての歴史的行為はかような現在から起り、この世界を表現する。一切の歴史的なものはこの世界の主観的・客観的自己限定、特殊的・一般的自己限定として作られ、この世界においてある。かくしてあらゆる歴史的なものは歴史的であると同時に超歴史的である。我々は民族的であると共に世界的であり、民族に属すると同時に直接に世界においてあるのである。
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