哲学入門(58) 三木清

 道徳的行為の歴史性は、道徳的要求における真理の性質から明かにされ得るであろう。真理は単に知識にのみ関するものでなく、道徳にも真理がなければならぬ。それのみでなく、フィードレルのいった如く、芸術においても真理がその中心問題であり、芸術的真理における実質のみが芸術作品の永続的価値を決定するのであつて、あらゆる他の性質は副次的であり、一時的な効果を基礎付けるに過ぎぬと考えることもできるであろう。そしてフィードレルは芸術的真理の問題を観照の立場でなく芸術的生産の立場から考えたが、道徳的真理はもとより行為の立場から考えられねばならぬ。道徳における真理は客体の真理、自然の真理でなく、主体の真理、人間そのものの真理である。自然の真理はそれ自体においてあるものの真理であり、人間から認識されると否とに拘らずそれ自身において存在すると考えることができるとしても、道徳の真理は歴史的真理であり、主体と主体との間に生起するものである。自体においてあるものの真理に関わる主観は、カントの意識一般の如く、抽象的一般的な、非歴史的なものと考え得るにしても、歴史的な道徳的真理はつねに現実の具体的な人間に関わるのである。それは人と人との間に起るものであり、従って起らないこともあり得る、そのとき真理の代りに虚偽が現われるのである。道徳的真理は起るものであり、従って起らないこともあり得る故に、それは命令或いは当為(ゾルレン)の形をとるのである。自然の真理は命令でなく必然(ミュッセン)である、しかし世界についての真理も世界における真理の問題と見られるとき我々に対して命令の意味をもってくる。道徳的真理が当為であるということは、それが単なる形式であるとか単なる理想であるとかということでなく、むしろ逆である。それは歴史的真理として現実的なものであり、単なる意味というが如きものでなく、却って意味と存在との統一である。道徳的真理は人間の真理であるといっても、「人間」というものの一般的本質が問題であるのではない。それは私がそれに従って他の者に対する態度を作るべき人間一般の真の像というが如きものでもない。道徳においては私自身の真理が問われているのである。その真理は主体的な真理、言い換えると、真実、人間のまことである。人間のまこととは何であろうか。我が汝から喚(よ)び起され、汝の呼び掛けに応えるということである。かく応えることにおいて我のまことは顕わになり、真理は起る、即ちその真理は歴史的である。それが道徳の存在の真相である。呼び掛けはつねに具体的なものであり、これに応える行為もつねに具体的である。汝から喚び起されるためには、我は純粋で、まことでなければならぬ。また我を喚び起すためには、汝は純粋で、まことでなければならぬ。本質的に歴史的な行為的な道徳的真理は、具体的には、単に我のまことにあるのでなく、また単に汝のまことにあるのでもなく、我と汝との間にあるのである。
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