哲学入門(57) 三木清

 ところで「汝為すべし」という道徳的自覚は、自己が自己に、自己を汝として呼び掛けることであるが、それは同時に逆に、かように呼び掛けるものがむしろ汝であり、自己が汝に呼び掛けるのでなくて、汝から自己が呼び掛けられることである。良心を法廷に譬えたカントにおいても、訴えられたものが自己であって、裁判官は「他の人間」であった。自覚は超越によって可能になるのであり、それは単に自己が自己を意識するということでなく、却って自己が自己を超えるということである。自己が自己を超えることによって、自己が自己を意識するということも可能になる。自覚において現われるのは単なる我でなくむしろ汝であり、汝によって我も喚(よ)び起されるのである。「我々は反射によって、即ち我々自身への強要された還帰によって、目覚める。しかるに抵抗なくして還帰なく、客観なくして反省は考えられない」、とシェリングはいった。私はひとりでに反省的自覚的になるというよりも、客観の抵抗によって自己自身に還るのである。否、客観からでなく、却って他の主体即ち汝から、我は自己自身に還るのである。汝の命令によって我は喚び起されるのである。そこに道徳的行為の客観性がある。我が良心的であればあるほど、汝の我に対する呼び掛けはいよいよ迫ってくる。もとより単に外から強制されるのであっては道徳ではない。外から喚び起されることが内から喚び起されることであり、内から喚び起されることが外から喚び起されることであるところに、道徳がある。カントは、良心を主観的強制と見、これに対して実践理性の法則に基く義務を客観的強制と見たが、道徳を単に良心の問題と考えては単なる主観主義に陥ることになり、そこには何か、義務というが如き客観的命令的なものがなければならぬ。しかしカントの道徳法の概念には歴史性が欠けている。それは時と処と人とに関わりのない一般的法則として捉えられている、従ってそれは形式的であるに過ぎぬ。しかるに行為はつねに歴史的である、特定の状況のもとにおける特定の主体に依る行為があるのみであって、抽象的一般的な行為というものは考えられない。道徳は主体の主体に対する行為的聯関としてつねに歴史的である。
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