哲学入門(56) 三木清

 道徳的といわれる行為に固有なものは何であろうか。これが明かになって初めて、いかなる意味において他の種類の行為も道徳的と考えられるかが明かになるのである、認識は主体の客体に対する関係である、それは主体による客体の把捉である。科学においては人間も物と見られ、自然として取扱われる。認識の問題は我と物或いは自然との関係であるといわれる。しかるに道徳は主体の主体に対する行為的聯関のうちにあるのである。それは人と人との関係、人間的関係を指している。カントが、他の人を物としてでなく、人格として取扱え、ということを道徳的命令として掲げたのは、道徳の根本現象を明かにしたものということができる。道徳の根本概念は我と物でなく、我と汝である。
 道徳はすべて我と汝の関係の認められるところに成立する。そのことは人間を単に他との間柄においてのみ考えて、自己自身として考えないということではない。我々が人格であるのは、自己が自己に対する関係においてであって、他に対する関係においてではないといわれるであろう。しかし人間がこのように自己自身において道徳的存在であるということも、自己が自己に対して我と汝の関係に立ち得るということに基いている。私は私自身に対して汝と呼び掛ける。「汝為すべし」という道徳的命令は、私が私自身に対して汝と呼び掛けるのであり、そこに道徳の自律性がある。道徳を単に自他の間柄においてのみ考えるのでは、道徳の自律性は考えられないであろう。道徳的に自覚的であるということは、自己が自己に、自己を汝として対することである。カントが良心を、主体の主体に対する関係として、法廷に譬え、自己のうちに訴えられたものとその裁判官であるものとを考えたのも、かような関係を示すものにほかならない。良心的とは道徳的に自覚的であるということである。過去の私、未来の私、否、現在の私も、私はこれを汝としてこれに対することができる。かように自己が自己に、過去現在未来のすべてにおける自己に、これを汝としてこれに対し得るということは、人間存在の超越性に基いている。超越なしには道徳は存しない。自己が自己に、自己を汝として対し得る自覚的存在として人間は人格であり、かような人格にとって他の人間も真に汝であるのである。汝が真に汝として我に対するためには我が真に我でなければならぬ。
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