歴史とは何か(2) 津田左右吉

 歴史は人の行動によつて形づくられるものである。外面に現はれた行動はいふまでもなく、心の動きとても、人の心の動きであるので、それを広義の行動の語に含ませることができよう。ところが人は具体的には個人である。民族の動き社会の動きといつても、現実に行動し思惟し意欲するものは、どこまでも個人である。或る民族の生活様式、風俗、習慣、道徳、宗教的信仰、または一般的な気風といふやうなもの、その他、その民族に於いて何人にも共通のことがらはいろ/\あるが、現実に喜怒哀楽するものは個人である。社会組織とか政治上の制度とか経済機構とかがあつて、それが個人といろ/\の関係をもつてゐるけれども、現実に行動するものは個人の外には無い。さま/″\の集団的な活動がせられ、またいつのまにか行はれてゆく社会の動きとか世情の変化とかいふことがあつても、現実には個人の行動があるのみである。集団は単なる個人の集りではなくして、集団としての特殊のはたらきをするものであり、社会の動きもまた単に個人の行動の集められたものではなくして、それとは性質の違つた、社会としての、はたらきによる、と考へられる。けれどもそのはたらきは、多くの個人の間に相互にまた幾様にも幾重にもつながれてゐる錯雑した関係に於いて、断えず行はれるいろ/\のことがらについての、またさま/″\の形での、作用と反作用との入りまじつたはたらきに於いて、或はそれによつて、現はれる。要するに、多くの個人の心の動きと行動とによつてそれが生ずるのである。風俗とか習慣とかいふものの形づくられるのも、また同様である。制度や組織とても、それによつて個人が制約せられるが、それを形づくりそれを成り立たせるものはやはり個人間の上記のやうなはたらきである。あらゆる歴史的現象は人の行動であり、現実には個人の行動である、といふことは、これだけ考へても明かであらう。「現実には」といつたが、これは「具体的には」といつたのと同じ意義である。社会として集団としてのはたらきとか、民族の一般的な気風とか、または風俗習慣とか、さういふものは、人の行動についていふ限りに於いては、抽象的な概念である。
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