哲学入門(68) 三木清

 心情の倫理が絶対的であるのは、それが超個人的な普遍的な理性を基礎とすることに依るのである。カントに従うと、実践理性は自律的であり、自己が自己の立法者である。我々の行為は理性の普遍的法則に対する尊敬の感情から出なければならぬ。しかるに、もし道徳の基礎がかように抽象的一般的なものであるとすれば、我々が道徳法に合致すればするだけ、我々は個性であることをやめ、従って人格でもないということになるであろう。人格はどこまでも個性的なものである。それが超個人的意味をもっているということは、理性という抽象的一般的な本質に依るのでなく、却って人間がその全体の存在において超越的であるためである。善なる意志に基いてなされる行為が内容的な動機を含まず、無動機であるかのようであるのも、人間存在の超越性に依ってである。ただ主観的な動機からでなく、客観的な命令に従って行為することが道徳的である。己れをなくするとき、表現的なものはそのものとして顕わになり、我々に命令的に働きかけてくる。表現的なものが命令的なものであるのは、それが超越的意味をもっているからである。かようにして外からの命令に従って我々が働くということは、単なる外的強制に従うということでなく、却って真に内から働くということである。真に自己自身に内在的なものは超越的なものによって媒介されたものでなければならぬ。主観的な自己を殺してこのものに生きることによって、我々は真の自己となるのである。
 然るに行為は単に意識の内部における現象でなく、行為するとは却って意識から脱け出すことである。行為するには身体が必要である。我々の自己は身体的な自己である。従って快楽とか幸福とかという感性的なものも、行為にとって無視することのできぬ要素である。パスカルのいった如く、すべての人間は幸福を求めており、それには例外がない。幸福を軽んずる者も、それ自身の仕方で幸福を求めているといえるであろう。内容をもたぬ単に形式的な意志というものはあり得ない。我々の行為はつねに環境における行為であり、環境に適応してゆくことによって我々の生命は維持されるのである。それ故にすべての行為は生命価値をもったものであり、功利的なものである。スピノザのいった如く、すべての個体はその存在において能う限り持続することに努めている。我々の行為は一定の環境における行為として、単に形式的なものであることができず、内容的なものでなければならぬ。我々の意志は抽象的一般的なものでなく、現実的に歴史的に限定されたものでなければならぬ。
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