次に、解釈上の意見に差異を生ずる第二の原因は、彼ら各自の法的正義観に差異があり得ることである。ここで法的正義観というのは、広く言えば世界観もしくは人生観と言ってもよいが、この場合には、特に法に即して洗練された法律家独得の世界観であって、世間普通にいう世界観とは趣を異にしたものである。一例を挙げると、かつて、電気窃盗を窃盗罪として処罰すべきや否やが問題になったことがある。当時は旧刑法時代で現在の刑法第二四五条に相当する規定がなかった。それにもかかわらず、わが国の裁判官は――前に一言した――「財物」の意味を広く解釈して、窃盗罪の成立を認めたのであるが、同じ頃ドイツの裁判官は窃盗罪の成立を否定したことがある。この場合、電気窃盗を世間普通の意味で正義に反する行為と考えたことは、確かにドイツの場合でも同じであったに違いないのであるが、恐らく彼らは、なるほど電気窃盗は正義に反する行為には違いないけれども、刑法には罪刑法定主義という大切な基本原則がある、そして窃盗罪に関する刑法の規定はもともと普通有体の物を窃取する場合を予定して設けられたものであるから、みだりにこれを有体物以外のものの窃取にまで拡張して解釈することはよろしくない、この場合電気窃盗を罰することも必要かも知れないが、そのために罪刑法定主義を破るのは刑法全体の建前から見て一層よろしくないと考えたに違いないのであって、そこに、彼此(ひし)の裁判官の間に法的正義観の差異があったと言えるのである。
かくのごとく、法的正義観は、個々の場合に裁判官が法規の解釈をするについての態度を決定する上に重要な働きをしている。学者の法規解釈が人によっていろいろ違う原因も、多くの場合、各学者それぞれが違った正義観を持っていることにあると言うことができる。法規解釈が純客観的に、無目的に行われるということは事実あり得ない。解釈は、結局技術であり、手段であるにすぎないのであって、それを使うのは人である。従って、その人がいかなる正義観を持っているかによって解釈が違ってくることがあり得るのは当然のことである。
そうだとすると、いやしくも法学を学ぼうとする者は、単に法規を形式的に解釈する技術を習得するだけでなく、同時にその技術を使うについての指標たるべき法的正義観の涵養に力めなければならない訳であるが、かかる正義観の涵養はどうすればできるのか、現在の法学教育はその点について実際どういうことをしているか。
この文章は、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/
)から転載したものです。
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