哲学入門(64) 三木清

 かようにして人間は役割における人間であると同時に人格である。道徳は人格的関係であるといっても、人格的関係は役割の関係から抽象して考えられず、逆に役割の関係は同時に人格的関係であって道徳的である。役割における人間として我々は有能でなければならず、人格として我々は良心的でなければならぬ。しかも二つのことは対立でありながら統一である。我々の役割は社会的に定められている、役割はつねに全体から指し示され、全体と部分との関係を現わしている。職能的人間として我々は社会から規定されている。従って人間を単に役割における人間として見てゆけば、社会と個人との関係は全体と部分との単に内在的な関係となり、個人の自由は考えられないであろう。その場合、個人は社会にとって有機体の器官の如きものとなり、単なる手段として存在するに過ぎなくなるであろう。しかし人間は人格である。人格として人間は自由である。彼の自由は彼の存在の超越性において成立する。人間は社会に単に内在的であるのでなく、同時に超越的である。我々は社会のうちにありながら社会を超えている、我々が単に民族的でなく同時に人類的であるというのも、その意味である。社会からいえば、社会は個人に対して単に超越的であるのでなく、同時に内在的である。社会は我々の外にあるのでなく我々の内にあるということができる。しかしながら、真に内なるものは真に外なるものでなければならぬ、それは外なるものよりもなお外なるものとして真に内なるものであるのである。我々の内なる人類というものは単に主観的なものでなく、真に外なるものとして最も客観的なものでなければならぬ。それは抽象的普遍的なものとして考えられた人類でなく、却って人間の存在の根拠としての世界でなければならぬ。従って我々は人格として社会を超えるといっても、個人的非社会的であるということではない。我は汝に対して我であり、我の存在根拠であるものは同時に汝の存在根拠であることなしには我の存在根拠であることもできぬ。しかも真に内なるものは真に外なるものであり、外なるものを離れて内なるものがあるのではない、現実の世界とは別に世界があるわけではない。世界は自己形成的世界である、世界は世界を作ってゆく、人間は創造的世界の創造的要素である。我々の役割は単に社会から書いて与えられているのでなく、他方我々自身が自由に書き得るものである。言い換えると、それは社会的に定められていると同時に我々自身の定めるものである。我々は社会から限定されると共に、逆に我々が社会を限定する。我々は社会に働きかけ社会を変化することによって自己の役割を創造してゆかねばならぬ。我々の職能は固定的なものでなく、歴史的に、言い換えると、主観的・客観的に形成されるものである。役割における人間として我々は社会にとっての手段であるとすれば、人格として我々は自己目的である。人間は自己目的であると同時に手段であるという二重の性格のものである。
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