「恩讐の彼方に」
作:菊池寛
市九郎は、主人の切り込んで来る太刀を受け損じて、左の頬から顎へかけて、
微傷ではあるが、一太刀受けた。自分の罪を――たとえ向うから挑まれたとは
いえ、主人の寵妾と非道な恋をしたという、自分の致命的な罪を、意識してい
る市九郎は、主人の振り上げた太刀を、必至な刑罰として、たとえその切先を
避くるに努むるまでも、それに反抗する心持は、少しも持ってはいなかった。
(略)
敵を討つなどという心よりも、このかよわい人間の双の腕によって成し遂げら
れた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。彼はいざり寄
りながら、再び老僧の手をとった。二人はそこにすべてを忘れて、感激の涙に
むせび合うたのであった。
(全部読む ) 青空文庫
(作者説明 ) ウィキペディア
(作品説明 ) ウィキペディア