浮雲 二葉亭四迷
薔薇の花は頭に咲て活人は絵となる世の中独り文章而已は黴の生えた陳奮翰の四角張りたるに頬返(ほおがえ)しを附けかね又は舌足らずの物言を学びて口に涎を流すは拙しこれはどうでも言文一途の事だと思立ては矢も楯もなく文明の風改良の熱一度に寄せ来るどさくさ紛れお先真闇三宝荒神さまと春のや先生を頼み奉り欠硯に朧の月の雫を受けて墨摺流す空のきおい夕立の雨の一しきりさらさらさっと書流せばアラ無情(うたて)始末にゆかぬ浮雲めが艶しき月の面影を思い懸なく閉籠て黒白も分かぬ烏夜玉のやみらみっちゃな小説が出来しぞやと我ながら肝を潰してこの書の巻端に序するものは
(略)
出て行くお勢の後姿を目送って、文三は莞爾した。どうしてこう様子が渝ったのか、それを疑っているに遑なく、ただ何となく心嬉しくなって、莞爾した。それからは例の妄想が勃然と首を擡げて抑えても抑え切れぬようになり、種々の取留も無い事が続々胸に浮んで、遂には総てこの頃の事は皆文三の疑心から出た暗鬼で、実際はさして心配する程の事でも無かったかとまで思い込んだ。が、また心を取直して考えてみれば、故無くして文三を辱めたといい、母親に忤いながら、何時しかそのいうなりに成ったといい、それほどまで親かった昇と俄に疏々しくなったといい、――どうも常事でなくも思われる。と思えば、喜んで宜いものか、悲んで宜いものか、殆ど我にも胡乱になって来たので、あたかも遠方から撩る真似をされたように、思い切っては笑う事も出来ず、泣く事も出来ず、快と不快との間に心を迷せながら、暫く縁側を往きつ戻りつしていた。が、とにかく物を云ったら、聞いていそうゆえ、今にも帰ッて来たら、今一度運を試して聴かれたらその通り、若し聴かれん時にはその時こそ断然叔父の家を辞し去ろうと、遂にこう決心して、そして一と先二階へ戻った。
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