法学とは何か(6) 末弘厳太郎

二 近代社会が法学的訓練を受けた人間を必要とする理由
 三 大学に入学してくる青年は、すべて結局は職を求めているのだと言っても言い過ぎではないと思う。しからば、職を求めるために大学教育がなぜ必要なのか、また、少なくともなぜ役に立つのか、その問題を考えることが、大学における教育もしくは学習の目的を理解するために是非とも必要である。殊に法学部の場合には、その必要が最も大きいのであって、ここでは従来この真の理解が十分でないために、教育もしくは学習そのものが著しく能率を害されているように私は考えている。
 裁判官や弁護士のような法律的職業に志す者が法学部に入学する目的は大体わかるが、現在法学部に入ってくる学生のすべてが、必ずしも裁判官や弁護士になりたがっている訳ではなく、むしろその大部分は別な職業に向うことを目的としている。それでは彼らは、果して何のために法学部に入ってくるのか。彼らが法学部に学び法学部を卒業することが、なぜ職業を得ることに役に立つのか。もしも法学部の教育が、単に法律的職業を得るのに役立つにすぎないとすれば、今のように数多くの青年が法学部に入りたがる訳はない。また、今のように多数の学生を収容する官公私立の法学部が沢山必要な訳もわからない。どうしても、今の世の中それ自身が全体として法学教育を受けた人間を沢山必要とするようにできているのだと考えなければ、この訳はわからないのである。
 そこで我々はこの見地から、現在の世の中の特色、国家社会の特質を考えてみる必要がある。今の国家社会が全体として法学的素養を持つ人間を沢山必要とするようにできているのだと考えなければ、どうしてもこの理由を理解することができないからである。
 四 この点で先ず第一に気づくことは、現代の国家が法治主義的にできており、裁判はもとより行政一般が法治主義的に行われていることである。裁判、行政等の国家機能がすべて法治の原理に従って行われている以上、その運用に当る役人に法学的素養が必要なことは言うまでもないし、役所を相手に仕事をする一般国民が、自然、法学的素養を必要とすることになるのも当然だと言わなければならないからである。
 ところが、社会学的に今の世の中全体を考察してみると、法治的機構は必ずしも国家にのみ限られていない。会社その他民間の私企業も、その規模が大きくなるにつれて、すべて法治的機構によらなければ秩序正しい能率的の運営を期することができない。否、更に進んで考えれば、資本主義的経営そのものが初めから機械のように信頼し得る法律の存在を条件としてのみ可能なのであって、裁判や行政のような国家機能が法治的でなければならない主な理由もここにあると考えることができる。
この文章は、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/
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