しかし、学問として歴史を研究するためには、なほ重要なしごとのあることを、こゝにいつておかねばならぬ。生活の過程は複雑なもの、また波瀾起伏に富むものであり、多くのことがらがこみ入つた関係でからみあひもつれあひ、または摩擦しあひ衝突しあひ、さうしてその一つ/\の力が強くなつたり弱くなつたり、時に顕はれ時に隠れたり、或は前からのものが無くなつて新しいものが生じたりするのみならず、それらのはたらきあふ状態も断えず変化してゆくのであるから、それを一つの生活の過程として意識の上に再現させることは、実は甚だむつかしいことである。そのためには、からみあつてゐるものを一すぢ/\に細かくときほぐして、一々その性質を究め、その由来や行くへをたどつて、どこからどこへどうつながつてゐるかを明かにすると共に、その間のもつれあひかたとその変化とを見、さうしてそれらがどうはたらきあひどう動いて全体として生活となり、生活の上のどんな事件をどう起し、それがまた新しいどんな事件をどう導き出し、それによつてどのやうに生活を進行させて来たかの過程を、考へてみなくてはならぬ。多くのことがらが互にもつれあひからみあふといつたが、もつと適切には互に滲透しあひ互に変化させあふといふべきであつて、一つのことがらは断えず他のことがらのはたらきをうけてそのことがら自身が変化してゆくのである。多くのことがらといふのも、現実には分解すべからざる一つの生活を、思惟によつて強ひて分析した概念に過ぎないが、生活を一つの生活としてその具体的なイメィジを思ひ浮かべるための学問的の手つゞきとして、かういふ分析をする必要があるために、かういつたのである。かういふ風にして生活の変化して来た道すぢを明かにするのが、歴史を知るために必要なしごとである。これは通俗に因果の関係を考へるといはれてゐることに当るのであるが、後にいふやうにこのいひかたは妥当でないと思ふ。さてかういふしごとをした後に於いて、始めて生活の過程の正しいイメィジを具体的な姿で思ひ浮かべることができるのである。のみならず、それによつて史料が無いために知られないことの推測せられる場合があり、歴史の限界が幾らかは広められないにも限らぬ。但しこれは一般的な方法論などを適用するのみではできず、具体的な現実の生活に接して始めてできることであるが、それには、観察と思惟とが綿密また正確であり、さま/″\のことがらに於いてそれを統一する精神、といふよりもさま/″\のはたらきをしながら一つの生活であるその生活を動かしてゆく根本の精神、を見出す哲学者的な資質が要求せられる。けれども、そのしごとはどこまでも具体的な生活の真相を明かにするところにあるので、抽象的な観念なり理論なりを構成することではない。上にもいつた如く、何ごとかを概念として把握するのは、思惟のためには必要でもあるが、それは具体的な生活の過程を理解する一つの方法としてのことである。生活の過程の道すぢを知るといつても、それはどこまでも特殊な、二度とは起らない、具体的の、生活、現実の歴史的現象、についてのことである。
しかし、かうはいふものの、歴史を知ること書くことは実は甚だむつかしい。具体的な生活の過程を具体的なまゝに意識の上に再現させるといふことは、どんな詩人的また哲学者的な資質を兼ね具へてゐる歴史家とても、完全にできるとはいひかねる。いかによい資質をもつてゐても、人である以上、それにはかならず偏するところがあるのみならず、上にいつた如く歴史家の知り得ることには限界があるからである。もつと根本的にいふと、どんな小さな簡単なことがらについてでも、それを知るといふことは、知らうとするものの知識なり気分なりによつて、何ほどかそれを変化させることだからである。だから、実際には、多くの異なる歴史家によつてそれ/\生活とその過程との異なるイメィジが作られ、異なる歴史が書かれることになる。たゞ歴史家の心がまへとしては、できるだけ、偏見に陥らず、固定した考へかたによることを避け、また個人的な感情を交へず、特殊な意図や主張をもたず、どこまでも客観的に歴史の過程を思ひ浮かべるやうに努力すべきである。
この文章は、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/
)から転載したものです。
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