こゝまでいつて来て、問題を歴史に立ちかへらせる。歴史は生活の姿であるが、通常の場合、それは個人の生活をいふのではなくして集団生活、特に民族生活または国民生活、をさしていふのである。さて生活は断えず生活する自己を変化させつゝ時間的に進行してゆくので、その進行の過程がそのまゝ歴史なのである。たゞそれが歴史として人の知識に入つて来るのは、その過程のうちの或る地点に立つて、それまでに経過して来た過程をふりかへつて見る時のことである。生活は断えず進行してゆくから、進行してゐる或る現在の瞬間にこの地点を定める時、過去からの生活の過程が歴史として現はれて来るのである。これが普通の意義での歴史であるが、歴史が生活の過程であるとすれば、現在の瞬間から更に先きの方に進行してゆくその過程、即ち未来の生活、もまた歴史を形づくるものであるから、歴史の語の意義を一転させて、人は常に歴史を作つてゆく、といふやうないひかたをすることもできる。或は、未来の生活の進行に於けるその時※(二の字点、1-2-22)の現在の地点に立つて、その時までの過程をふりかへつて見れば、今から見ると未来である生活が過去の生活として眺められ、普通の意義での歴史がそこに見られるのだ、といつてよからう。この地点は刻々にさきの方に移つてゆくから、歴史の過程は次第次第にさきの方に伸びてゆく。しかし、未来に作られてゆく歴史の如何なるものであるかは、現在からは知ることができぬ。そこで、うしろを向けば作られて来た歴史が知られるが、前を向けば知られない歴史を刻々に作つてゆくことだけがわかる、といはれよう。この知られない歴史を刻々に作つてゆき、知られない歴史を刻々に知られる歴史に転化させてゆくのが、生活なのである。
この文章は、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/
)から転載したものです。
カテゴリー
タグ
- アインシュタイン
- アラン
- アリストテレス
- アルツィバーシェフ
- エピクテトス
- エマーソン
- カント
- キルケゴール
- ギッシング
- ゲーテ
- シェイクスピア
- シャンフォール
- シュバイツァー
- ショーペンハウアー
- ショーペンハウエル
- ジョン・ロック
- セネカ
- ツルゲーネフ
- デモクリトス
- デール・カーネギー
- トルストイ
- ドストエフスキー
- ナポレオン
- ニーチェ
- バーナード・ショー
- パスカル
- ヒルティ
- プラトン
- ヘンリー・フォード
- ベンジャミン・フランクリン
- ベーコン
- マルクス
- ミシェル・ド・モンテーニュ
- モンテスキュー
- モンテーニュ
- ラッセル
- ラ・ブリュイエール
- ラ・ロシュフコー
- ラ・ロシュフーコー
- ルソー
- ヴォルテール
- 三木清
- 新渡戸稲造
- 森祇晶
- 武田鏡村
-
コトダマ・ドットイン
メタ情報