哲学入門(66) 三木清

三 行為の目的
 行為には目的がなければならぬと考えられている。行為は意志に基いて起り、意志は目的をもっている。そして一般に知識の目的が真理であるように、道徳的行為の目的は善と呼ばれるのである。そこで善とは何かということが道徳の根本問題になってくる。
 行為の目的は快楽であるとするのは快楽説である。それとつながって、行為の目的は幸福であるとする幸福説がある。幸福は何等かの快楽を意味している。ところで快楽は主観的なものであり、各個人によって快楽とするものは異る故に、快楽を目的とする場合、道徳は客観性のないものになるであろう。そこに何等か客観的な標準を求めようとすれば、快楽というものを量化して考えねばならなくなる。もし快楽に肉体的快楽と精神的快楽というような性質的差別を認め、我々の求むべきものは肉体的快楽でなくて精神的快楽であるというように主張するとすれば、それはすでに道徳の基準を快楽以外のものから取ってくることになる。快楽を無差別にただ量的に考えるのでなければ快楽説は純粋でない。しかるに心理現象は本来すべて性質的なものであって、量的に考えることを許さないのである。功利主義者ミルの如きも、幸福な豚になるよりも不幸なソクラテスになることを選ぶといっている。しかしもしかように考えるとすれば、それは快楽説の自殺でなければならぬ。次に我々は快楽を求めて快楽を得るのでなく、むしろ一時の快楽を否定することによって、真の快楽に達するというのが普通である。しかもこのように考えることも純粋な快楽説にとっては不可能でなければならぬ。なぜなら快楽説は元来あらゆる超越的なものを認めない内在論であるから、従って快楽説にとっては刹那主義が当然の帰結である。一時の快楽を否定して後の一層永続的な快楽を求めるということは、すでに行為に何等かの超越的な目的を認めることであり、少くとも快楽に性質的な差別を認めることである。更に我々の行為が身体的なものである限り、それが快楽を離れないことは当然であると考えられるけれども、身体というものも物体とは異り、どこまでも主体的なものである。我々の身体もまた超越的意味をもっている。人間が超越的であるのは単にいわゆる精神においてでなく、却ってその全体の存在においてである。人間の感性はどこまでも人間的であって、単に動物的であるのではない。即ちそれはデモーニッシュな性質をもっている。かようにして我々はつねに快楽を求めて行為するというのでなく、むしろしばしば悲劇的なもの、快楽や幸福を否定するものを求めてさえ行為する。この点において快楽説は、抽象的なオプティミズム(楽天説)に立っている。また更に快楽は多くの場合我々自身に依存するのでなく、我々の外部にあるものに依存している。それは自己の外部にある物に依存し、或いは他の人間の存在に依存している。従って快楽を目的とする行為は自律的でなくて他律的でなければならぬ。かような行為は自由であることができぬ。自律的でないところに自由はないからである。もと内在論の上に立つ快楽説においては自由は認められない。自由の根拠は人間存在の超越性である。
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