(2) 次に、初学者として是非とも知っておかなければならないことは、今でも法律家のあいだには「法秩序の完全無欠性」というドグマが力を持っていることである。例えば、裁判官は必ず法によって裁判しなければならない、裁判は必ず法―事実―裁判という三段論法の形式をとらなければならない、しかもその法は常に、必ずあらかじめ存在する、裁判官はその存在する法を見出してそれによって裁判をしなければならない、ということが一般に信ぜられているものである。裁判は必ず法によってなされねばならない、裁判官が法によらずに勝手な裁判をしてはならないということは、法治国における司法の根本原理で、これは誰にも理解できることであるが、そのよるべき法が、いかなる場合にも常に、必ずあらかじめ存在しているというのはどう考えても不合理である。それにもかかわらず、今なお法律家は、一般にいろいろな方法でその不合理を否定し、法秩序は全体として常に完全無欠であって、解釈よろしきを得れば必要な法を必ず見出し得ると主張しているのである。
その方法にはいろいろあるが、そのうち最もよく使われるものは「類推」Analogie である。これは例えば、甲という事実に適用せらるべき法が法規の解釈からはどうしても見出されない場合に、幸い甲と類似した乙に関して法があると、それを類推して甲についても類似の法があるというのである。法がない以上類似の事柄に関する法を類推して類似の法的取扱いをすることそれ自身は、法の基本的理念である公平の見地から考えて、必ずしも不合理ではない。しかし、この場合でも、法があるのではなくして実際の必要から法を作っているにすぎないと考えるほうが合理的であるにもかかわらず、多くの学者はこの当然の理を認めないで、類推を解釈の一手段と考え、これによって法を見出すのだと説いている。
次に、現在行われている多くの教科書を見ると、一方において裁判は必ず既存の法によってなされねばならないと言っていながら、法令の解釈から出てくるのではない法が別にあるということがしばしば書かれている。
その一つは「判例法」であるが、従来一般の考え方によると、裁判は法令により法令を解釈するによって与えられるもので、それ自身法を作るものではない。そうだとすれば、裁判から法が生れる筈はあり得ないし、判例を根拠として裁判するのも、法によって裁判するのだとは言いがたい訳である。それにもかかわらず、判例法の存在は多くの学者の認めるところであり、現に、判例を根拠として裁判を与えている事例も、実際に少なくない。そして、学者は一般にそれを肯定しているが、その理由に関して十分我々を納得せしめるに足るだけの説明が与えられていないのが現在の実情である。
この文章は、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/
)から転載したものです。
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- 朝は清々しさを表現し、昼は壮大さを表現し、夜はそれらを危険さで包み込み一日を終わらす、当然と思わせる細工をして、そしてまた一日。一日とは、単純ではない、壮大な歴史によって、作られた芸術である。
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