#斜陽 #太宰治 【日本の名作文学】

「斜陽」

作:太宰治

 朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
と幽(かす)かな叫び声をお挙げになった。
「髪の毛?」
スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ」
お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張では無い。婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違っていらっしゃる。弟の直治がいつか、お酒を飲みながら、姉の私に向ってこう言った事がある。

(略)

ご不快でしょうか。ご不快でも、しのんでいただきます。これが捨てられ、忘れかけられた女の唯一の幽かないやがらせと思召し、ぜひお聞きいれのほど願います。
M・C マイ、コメデアン。
昭和二十二年二月七日。

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#五重塔 #幸田露伴 【日本の名作文学】

「五重塔」
作:幸田露伴

 

木理美しき槻胴、縁にはわざと赤樫を用ひたる岩畳作りの長火鉢に対ひて話
し敵もなく唯一人、少しは淋しさうに坐り居る三十前後の女、男のやうに立
派な眉を何日掃ひしか剃つたる痕の青々と、見る眼も覚むべき雨後の山の色
をとゞめて翠のひ一トしほ床しく、鼻筋つんと通り眼尻キリヽと上り、・・・

 

(略)

 

・・・年月日とぞ筆太に記し了られ、満面に笑を湛へて振り顧り玉へば、両
人ともに言葉なくたゞ平伏ふして拝謝みけるが、それより宝塔長へに天に聳
えて、西より瞻れば飛檐或時素月を吐き、東より望めば勾欄夕に紅日を呑ん
で、百有余年の今になるまで、譚は活きて遣りける。

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#聖家族 #堀辰夫 【日本の名作文学】

死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。
死人の家への道には、自動車の混雑が次第に増加して行った。そしてそれは、その道幅が狭いために、各々の車は動いている間よりも、停止している間の方が長いくらいにまでなっていた。
それは三月だった。空気はまだ冷たかったが、もうそんなに呼吸しにくくはなかった。いつのまにか、もの好きな群集がそれらの自動車を取り囲んで、そのなかの人達をよく見ようとしながら、硝子窓(ガラスまど)に鼻をくっつけた。それが硝子窓を白く曇らせた。そしてそのなかでは、その持主等が不安そうな、しかし舞踏会にでも行くときのような微笑を浮べて、彼等を見かえしていた。

(略)

絹子はそう答えながら、始めはまだ何処かしら苦痛をおびた表情で、彼女の母の顔を見あげていたけれども、そのうちにじっとその母の古びた神々しい顔に見入りだしたその少女の眼ざしは、だんだんと古画のなかで聖母を見あげている幼児のそれに似てゆくように思われた。

#走れメロス #太宰治【日本の名作文学】

「走れメロス」

作:太宰治

 メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。

(略)

ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
勇者は、ひどく赤面した。

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#闇の絵巻 #梶井基次郎 【日本の名作文学】

「闇の絵巻」
作:梶井基次郎

 

最近東京を騒がした有名な強盗が捕まって語ったところによると、彼は何も
見えない闇の中でも、一本の棒さえあれば何里でも走ることができるという。
その棒を身体の前へ突き出し突き出しして、畑でもなんでも盲滅法に走るの
だそうである。私はこの記事を新聞で読んだとき、そぞろに爽快な戦慄を禁
じることができなかった。

 

(略)

 

闇の風景はいつ見ても変わらない。私はこの道を何度ということなく歩いた。
いつも同じ空想を繰り返した。印象が心に刻みつけられてしまった。街道の
闇、闇よりも濃い樹木の闇の姿はいまも私の眼に残っている。それを思い浮
かべるたびに、私は今いる都会のどこへ行っても電燈の光の流れている夜を
薄っ汚なく思わないではいられないのである。

 

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