歴史とは何か(8) 津田左右吉

 さて、歴史が人の生活の過程であるとすれば、それはその本質として具体的なものでなくてはならぬ。歴史を知るといふことは、具体的な生活の過程を具体的なまゝに意識の上に再現させることである。しかし、かくして知られた歴史はそれを書き現はさねば歴史としての用をなさぬ。そこでそれを書くことになるが、その書きかたは、知られた歴史をそのまゝに、即ち具体的な生活の過程を具体的なまゝに、叙述することでなくてはならぬ。刻々に作つてゆく歴史を、作つて来たものとして見る立場に立つて、その作つて来た過程を具体的な過程のまゝに再現し叙述するのが、歴史を書くことなのである。勿論、或る時代の文化状態、或る社会の組織構造、または一般的の風俗習慣気風、といふやうなことを概念として構成し把握するのも、具体的の生活過程を知るため、また書くため、に知識を整理する一つの方法として必要ではあるが、歴史そのものの本質はそこにあるのではない。最初にいつたやうな多くの民族が昔から作つて来た歴史的記録が歴史の本質にかゝはるものだといふのも、このことから考へられるのであつて、人の行動を記したもの、年代記的性質を帯びたものは、生活の過程をそのまゝに知り、そのまゝに叙述すべき歴史の使命と、おのづから一致するところがある。かゝる歴史を知りまた叙述することは、古今を通じ諸民族を通じての人生の内的要求から出たことなのである。
 しかし、かういふ風に歴史を知ること書くことが果してできるであらうか。上に過去の生活の過程は知られる歴史であるといつたが、「知られる」といふのは歴史の性質についてのことであつて、実際はその歴史がすべて知られてゐるといふのではなく、また知り得られるといふのでもない。かゝる歴史を知るのは、いろ/\の形での、またいろ/\の意義で用をなす、史料によるのであるが、その史料は知らうとする歴史の全体からいふと極めて僅かしか無く、さうしてその僅かなものにも誤謬や偏僻やまたはその他のいろ/\の欠点がありがちであるから、史料を取扱ふには特殊の用意がなくてはならぬ。そこで歴史の研究の方法論といふやうなものが生じ、それによつて歴史の学問が成りたつことになるが、どんな方法を用ゐるにせよ、知られないことは知られないから、そこに歴史の学の限界がある。のみならず、史料は古くからあるものであるが、歴史家は現代人であるから、それを解釈しそれを取扱ふには現代人の知識や考へかたがおのづからその間にはたらいて、却つて史料の真実を見失う虞れもある。しかし今はさういふことには立ち入らない。たゞ歴史的現象は人の生活であり、人の行動であるから、歴史を知るには何よりも「人」を知らねばならず、さうして「人」を知るには、知らうとするもの自身がそれを知り得るだけの「人」であることが必要である、といふことと、知るといふことは、生活とその過程と、即ち生きてゐる人の生きてゐる生活、断えず未来に向つて歴史を作つて来たその過程、を具体的のイメィジとして観ずる意義であることと、この二つのことをいつておきたい。過ぎ去つた生活の過程を意識の上に再現すると上にいつたのは、このことである。さうすることによつて、歴史を叙述することもできるのである。さうしてそれは、「人」に対する鋭い洞察と深い同情とをもち、具体的なイメィジを作るゆたかな想像力を具へてゐるもの、一くちにいふと詩人的な資質をもつもの、にして始めてなし得られる。歴史を研究するのは学問であり、それを科学といつてもよいが、歴史を知りまた書くのは、詩人でなくてはならぬ。歴史には知られないところがあるから、詩人とてもその限界を越えることはできないが、その限界の内に於いても、通常の意義に於いての学問だけのしごとではないところに、歴史を知ることの特殊の意味がある。
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