哲学入門(70) 三木清

 我々の行為は客観的表現から喚び起されるものとして、主体的に見ると、どこまでも無目的であるということができる。己れを空しくするに従って客観は我々に対して真に表現的なものとなるのである。しかし客観的に見ると、我々の行為はつねに限定されたものに向うものとして目的をもっている。我々の行為にはつねに歴史的に限定された目的がある。目的というものは、主体が作為して作ったものではなく、現実そのもののうちに、その客観的表現のうちにあるのである。従ってそれは客観的に認識することのできるものである。我々は現実を科学的に認識することによって、我々の行為の目的を捉えねばならぬ。それは歴史の必然的な発展の方向のうちに与えられている。しかし歴史は単に客観的なものでなく、また単に客観的なものは目的ということもできないであろう。歴史は我々にとって単に与えられたものでなく、我々がその中にあって、その形成的要素として、我々の作るものである。しかし我々は勝手に歴史を作り得るものでなく、我々の目的は客観的なものでなければならぬ。形成的世界における形成的要素として、我々の行為は本来つねに職能的な意味をもっている。その世界の我々に対する呼び掛けが我々にとっての使命である。職能は使命的なものであり、使命はまた職能に即して歴史的・社会的に限定されたものである。しかし単に客観的なものは使命とは考えられない。外からの呼び掛けが内からの呼び掛けであり、内からの呼び掛けが外からの呼び掛けであるところに使命はある。真に自己自身に内在的なものが超越的なものによって媒介されたものであり、超越的なものによって媒介されたものが真に自己自身に内在的なものであるというところに、使命は考えられるのである。かような使命に従って行為することは、世界の呼び掛けに応えて世界において形成的に働くことであり、同時に自己形成的に働くことである。それは自己を殺すことによって自己を活かすことであり、自己を活かすことによって環境を活かすことである。人間は使命的存在である。

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