哲学入門(69) 三木清

 ところで行為は意識の外部に出るものである以上、それはつねに社会的に結果を生ずるであろう。我々は社会的存在として我々の行為の結果に対して責任を負わねばならぬ。行為を単に動機からのみ見て、動機さえ善ければ行為は善であると考える動機説は、主観主義、個人主義であって、行為を本質的に社会的なものと考えないところから生ずる誤謬である。自己の行為を完全に為し能うために知識をもたねばならぬということも、我々の社会的責任として我々に要求されているのである。倫理は「心情の倫理」に止まることなく、「責任の倫理」でなければならぬ。責任の倫理は自己の行為の結果に対して責任を負うことである故に、それは知識を欠くことができないのである。我々は知識によって我々の行為の社会的結果をできるだけ予見して行為しなければならぬ。責任の倫理は行為の結果を重んずるのであるが、それは単に結果さえ善ければ行為は善いと考えるいわゆる結果説であってはならぬ。結果説には人格的な見方が欠けている。それは自己をも他をも人格として認めないところから却って最も無責任なことともなり得るのである。人格とは或る内面的なものであり、内面性なくして人格はない。結果を考えることを他律的として排斥するカントの倫理学において重んぜられたのは、人格の内面性である。人格は自由なもの、自律的なものであり、かようなものとして人格は真に責任の主体であることができる。我々は我々の行為において社会に対して責任をもっていると共に自己自身に対して責任をもっている。自己の人格を尊重するということは、自己が自己に対して責任をもつということでなければならぬ。倫理は心情の倫理と責任の倫理との統一である。
 しかし我々の行為は単に我々自身から起るものでなく、環境から喚(よ)び起されるものである。それは単に主観的なものでなくて客観的なものである。環境が我々を喚び起すというのは、それが表現的なものであるからである。環境においてあるものが表現的であるということは、我々が主観的に、例えば感情移入の作用によって、その中へ意味を投入したというが如きことではない。表現的なものの表現する意味は単に心理的なものでなく、超越的なものでなければならぬ。かようなものとしてそれが我々に呼び掛けるということは絶対的な命令の意味をもっている。その呼び掛けに対する答として我々の行為は客観的な意味をもっている。表現的なものに呼び掛けられることによって生ずる我々の行為はそれ自身表現的なものである。しかるに表現作用は形成作用である。我々は我々の行為によって我々の人間を形成してゆくのである。人間は与えられたものでなく形成されるものである。自己形成こそ人間の幸福でなければならぬ。「地の子らの最大の幸福は人格である」、とゲーテはいった。我々の人格は我々の行為によって形成されてゆくのであるが、それは単なる自己実現というが如きことではない。道徳は自己実現であると考えるいわゆる自己実現説は、一個の内在論にほかならぬ。実現とは自己のうちに含蓄的にあったものが顕現的になるということを意味している。人間には超越的なところがあり、人格というものも人間存在の超越性において成立するのである。また我々は単に自己自身によって自己を作るのではない、我々は環境から作られるのである。その環境はしかし逆に我々の作るものであり、我々は環境を形成してゆくことによって我々自身を形成してゆくのである。
この文章は、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/
)から転載したものです。

カテゴリー: 哲学 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です