哲学入門(67) 三木清

 快楽は生命に対する功利的価値を意味している。そこで快楽説は功利主義的であるのがつねであり、功利主義はまた快楽説的であるのがつねである。我々の生活は環境における生活であるとすれば、我々の行為が何等か功利性を目差しているということは疑われず、その限り功利主義は理由をもっている。しかるに我々にとって環境であるのは何よりも社会である。我々は本質的に社会的存在であるとすれば、我々はもと唯ひとり幸福になることができぬ。社会のうちに不幸な人間が存在する場合、我々は真に幸福になることができないであろう。従って快楽とか幸福とかというものも社会的に考えられねばならぬであろう。功利主義者ベンサムは最大多数の最大幸福ということをもって道徳の原理としている。快楽説は個人的快楽説から社会的快楽説になった。ところで先ず最大幸福という観念は、幸福を単に量的に見るものである。それはすべての快楽を量的に見る機械的な合理主義に立っている。次に最大多数という観念は、真に社会的な見方に立つものでなく、社会を個人の和と見る個人主義的な見方を基礎としている。すべての個人がめいめい自由に自己の幸福と考えるものを飽くまでも追求するとき、そこに自然に社会全体の幸福が結果すると考えるのがベンサムの社会的快楽説である。従ってその根柢には予定調和の形而上学のオプティミズムが横たわっている。
 ところでカントは、快楽とか幸福とかを道徳の原理とすることは、道徳の原理を内容に求めるものとして排斥した。道徳は普遍妥当的なものでなければならぬ。しかるに意志の内容は普遍的なものであり得ず、従ってそれを原理とするとき、道徳の普遍妥当性は基礎付けられない。快楽説や功利主義などは相対主義に陥らねばならぬ。そこで道徳の普遍妥当性は内容にでなく形式に求められねばならぬとカントは主張した。知識の場合、その普遍妥当性の根拠が思惟の形式に求められたように、道徳の場合にも、その普遍妥当性の根拠が意志の形式に求められたのである。道徳の形式は意志の形式として主観に属するのであるから、形式主義は主観主義である。かような主観主義は、道徳においては実際にどうあるかということが問題でなく、何を為すべきかということが問題であり、道徳は事実にでなく当為に関わると考えられる故に、この場合、知識の場合におけるよりも一層理由を有するように思われる。道徳は命令の性質を具えている、その命令は絶対的でなければならぬ。しかるに内容を顧慮すれば、しかじかであるならばしかじかのことをせよというように、命令は仮言的になり、断言的であることができない。そこで道徳の命令が絶対的即ち断言的であるためには、形式主義の立場に立たねばならぬ。カントはかような断言的命令として、「汝の意志の格率がいかなる時にも同時に普遍的な立法の原理として妥当し得るように行為せよ」ということを掲げた。カントの形式主義は、快楽や幸福が行為の動機となることを一切斥けて、道徳的行為は純粋に義務のために義務を行うものでなければならぬと考えるのである。そこでカントの倫理説は厳粛主義と称せられている。これによってカントは道徳における心情の純粋性を要求する。「この世においても、またこの世のほかにおいても、無制約的に善と呼ばるべきは、善なる意志のほかにはあり得ない」、と彼はいっている。彼の倫理は「心情の倫理」であるといわれるであろう。
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