哲学入門(65) 三木清

 さて右に述べたように徳と技術とが結び付いているとすれば、徳と知との結合はおのずから明瞭であろう。すべての技術は知識を基礎としている。行為が技術的である限り、行為における発展は知識における発展によって可能にされる。徳と知とを分離的に考えることは、行為を技術的・形成的行為として根本的に把握しないところから生ずるのである。ここに技術というのは、もとより単に自然に対する技術をのみ意味しない。むしろすでにいった如く、社会に対する技術が今日極めて重要な問題となっている。とりわけ政治はアリストテレスが考えたようにアルヒテクトニッシュな意味をもっている。即ちそれはあらゆる技術の目的となるような技術、他の技術に対して総企画的にその位置と関係を示す指導的な技術である。アリストテレスにおいて政治学と倫理学とは一つのものであった。人間は本性上「社会的動物」であるとすれば、政治学と倫理学とは離れたものであることができぬ。アリストテレスにとって政治の目的は、いかにして「善い国民」であることと「善い人間」であることとを統一するかということであった。人間は「善い国民」の意味において社会にどこまでも内在的である。従って仮に自己の属する社会が悪いとしても、その社会において与えられた役割を果し、その社会に仕えることが彼の義務であるといわれるであろう。しかしながら人間は同時に「善い人間」の意味においてその社会を超えたものである。自己の自発的な行為によって自己がその中にいる社会を善くしてゆくことが人間の義務であるといわねばならぬであろう。我々は社会から作られたものであると共に社会は我々が作るものである。人間は閉じた社会に属すると同時に開いた社会に属している。かように矛盾があるところから形成的発展ということがあるのである。善い国民であることと善い人間であることとが統一されてゆくに従って、民族は世界的意味をもってくる。それによって同時に世界は世界的になってゆく。世界が世界的になるということが歴史の目的である。世界は開いたものとして到る処中心を有する円の如く表象されるように、世界が世界的になるということは無数の独立なものが独立なものでありながら一つに結び付いてゆくということである。それによって個別的なものがなくなるのではない。却って「形の多様性」は自然の、歴史的自然の意志である。
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