しかしながら他方、それにも拘らず、職能的専門家と人間とが区別され、技術的徳と魂の徳というが如きものとが区別されねばならぬところに、道徳の一つの重要な根拠があるのである。そのことは道徳の根拠が抽象的な人間性一般にあるということではない。人間はすべて個性である。そして専門家として技術的徳を具えることによって、各人の個性は形成され発達させられるということは事実であろう。しかしまた自己の専門は自己の個性に応じて自己みずからが決定し得るものである。そして個性の意味は専門家の意味に尽きるものではない。言い換えると、人間の人格は役割における人間の意味を超えたものである。役割における人間の意味を超えた個性が人格といわれるものである。人格といっても、すべての人に抽象的に共通なものがあるのではない。人格はつねに個性的である。ただそれが単に役割における人間とのみ見られない超越的意味をもっているところに人格があるのである。人間が主体的存在であるというのはその意味である。人間存在の超越性において人格が成立する。人格が或る超個人的意味をもっていると考えられるのも、そのためである。そこに技術的徳とは異る魂の徳というが如きものも考えられるのであって、それは人格的徳のことでなければならぬ。人間の主体性の自覚においてペルソナ(格人)とは異るペルゼーンリヒカイト(人格)が成立するのである。ペルソナはもと俳優が自己の演ずる役割に従って被る面を意味し、従って役割における人間のことである。人間は単に役割における人間でなく、人格である。人格として人間は単なる職能的人間を超えたものである。専門家として通達することによって彼の人間は作られるといっても、彼が単に専門家に止まっている限りそれは不可能であって、そこには専門にありながら専門を超えるということがなければならぬ。そのことは人間存在の超越性を示している。そしてそのことはまた、技術が人間の作るものでありながら人間を超えた意味をもっているということ、即ちそれが単に人間的なものでなく世界的・歴史的意味をもっているということを示している。人間の技術は自然の技術を継続するというのも、そのことでなければならぬ。そこでまた人間は形成的世界の形成的要素と考えられるのである。
この文章は、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/
)から転載したものです。
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