法学とは何か(14) 末弘厳太郎

 次には、「条理」、もしくは「条理法」という法が別にあって、裁判はそれによって与えても差支えない、更に進んでは、法令の解釈から出てくる法が条理と矛盾する場合には、むしろ条理によって裁判すべきであるというような主張をしている学者も少なくないのであるが、その理論的根拠に至ると、人によってその説くところが必ずしも一でないのみならず、それらの説明の中にも、十分我々の理性を満足せしめるに足るものを多く見出しがたいのが実情である。
 八 以上に説明したように、現在法学といわれている学問の大部分は、「何が現行法であるか」の説明に当てられている。そして学者は一般に、これを「解釈法学」と名づけているが、それは法令の解釈を通して法を見出すことが主な仕事になっているためである。しかし、以上の説明でもわかるように、実際には法令の解釈によって法を見出すと言っていながら、実は法を作っていると考えられる事例が稀でないのみならず、場合によっては、全く法令を離れて何が法であるかが説かれていることさえある。そのうえ法令の解釈によって法を見出すといわれている場合でさえも、それによって見出される法が解釈者によって必ずしも一でなく、同じ法規が人々によっていろいろ違って解釈されている場合が少なくない。それでは、一体かくのごとき解釈上の意見の違いはどこから生れてくるのか。
 その原因の第一は、広い意味での解釈技術に関する考え方が、人によってかなり違っていることである。その違いは実際上いろいろの形で現れているが、その最も顕著な例としては、或る人々が法令の形式的ないしは論理的解釈を通して法を見出し得る限度を非常に広く考えているのに反して、他の或る人々はそれを比較的狭く考えており、またそれらのなかにもいろいろと程度の差異があるという事実を挙げることができる。つまり、法令解釈の限度を広く考えている人々は、とかく眼の前に置かれている事実の具体的特殊性を無視もしくは軽視して、なるべくすべてを法規の適用範囲に入れてしまおうとする傾向がある。これに反して他の人々は、本来法規はすべて或る型として想定された事実を前提として作られているのだから、たまたま眼の前に置かれた事実がその型の範囲に入れば法規をそのままそれに適用してよいけれども、全くもしくは多少ともその型からはずれた事実にはそのまま法規を適用する訳にゆかない、この場合にはその与えられた事実を解釈者自らが改めて一つの型として考えながら、それに適用せらるべき法を自ら作らなければならないと考えるのである。
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